Volume#40 Loaded

ローデッド
エージェン・オースターマン
http://volumeproject.org/2014/07/loaded/

世界がせわしなくなればなるほど、衝突の障害も増える。難民に関する近刊のUNHCRに出ていた数字を見てみると、世界中の難民が5千万を越えるという史上最も高い記録—1986年からの統計データの中で、という話だが—が出ていた。これは動いている人々の大きな流れであって、主に暴力が原因となっている。韓国とか、南アフリカとか、スペインとかの全人口以上だ。もちろんそれは憂慮すべき悲しき数字だが、なぜ私たちはそこに関心を払うのだろう?なぜそれがニュースになるのだろう?なぜならこの例外性が関心を引くからであって、状況そのものが、というわけではないのだ。

これを読みながら、いくつかの連なった疑問が私の頭に浮かんできた。難民と亡命希望者は何が違うのか?(このレポートは5千万人の難民と120万の亡命希望者と別物にしている)とか、それは人道的水準にどういう影響をもたらすのか?とか、その数字は今日のより暴力的な世界を示唆していて(私たちはこれまで以上に安全な世界に住んでいると示唆するようなリサーチもいくつかある)、争いの数、病気にかかった人々の数、あるいは一人当たりの、地域当たりの、民族的背景ごとのリスクといった観点からこの主題を見るべきなのか?

続きを読む

広告

Volume#39 A City in the Making

生まれつつある都市
エージェン・オースターマン

 

都市の出生証明書が残っていることなんてあまりない。でもこれを見てほしい。記号やメモで溢れた香港の地図だ。好奇心をそそられる記録だが、左上の中国本島の「余白」、蛇口【Shekou】半島が、新たな港として、そして深圳経済特区となるべき産業地区として、囲われているところに目が行く。便利な位置にあって、コントロールが容易なエリア。個人的な記号と手書きのメモつきの地図によって、歴史が具体的なものになっている。それはすべてアイデアとひとつの場所からスタートした。

 

オランダの建築家グループが1997年に深圳へ訪れたとき、その都市は軌道に乗っていた―都市化のエリアは西の蛇口から東の盐田【Yentien】へ、そしてそこからさらに広がっていった。香港との境界線に沿ってドレープする、長い「リボン・シティ」だ。ひとつの印象的なモデルは新たな中心―福田【Futian】地区―を示していた。今日そこは都市の主要な行政機能のための場所となっているが、そのときはまだ荒れ地だった。訪れたグループの誰も、そのモデルが単に宣伝目的以上のものを提供してくれるなんて信じていなかった。私たちが知っている「都市」という概念と、私たちが出会ったものとの距離はあまりにも大きすぎた。それは西洋の人たちにとっては魅力的だったのだが、根本的にディストピア的な経験だったわけだ。様々な密度と高さを持つ都市化したエリアと、その間にある打ち捨てられたような空白域、すなわち将来の発展が約束されてはいるが目下のところまったく計画の手が及んでいない場所を数時間かけてドライブした。いかなる意味での中心も重心もない。しかし羅湖【Luohu】という香港を貫く古い境界線周りの密集は他の地域に比べてずっと高かった。

 

続きを読む

Volume#38 Law on the Line

境界線上の法
エージェン・オースターマン&ブレンダン・コルミール

 

法と信念について話してみよう。法は一定の信念を求める—私たちの集合的な最大利益に対して機能するような信念を。とりわけ昨年は、そんな信念を容易に見失うような事件があった。いくつかの注目を浴びるような事件が、不条理にあるものを解放し、他を迫害するような司法システムのなかの不調和に光を当てたのだ。ウォールストリートを例にとってみよう。2008年のリーマンショックに続き、アメリカ政府は法のベストチームをつくり、ことを悪化させている問題の原因を根絶やしにしようとした。過度な拝金主義と大規模な不正が明らかに進行しているにも関わらず、政府はひとりの主要なバンカーさえ告訴することができなかった。あるいはトレイヴォン・マーティンの隣人自警団員ジョージ・ジンマーマンによる冷血な殺人を見てみよう。フロリダの「スタンド・ユア・グラウンド(正当防衛)」法を利用することで、法律家は無防備な少年の人種差別ととられかねない殺人を正当化した。そしてグアンタナモ湾には、世界で「最も民主的な国家」が運営する監獄があり、彼らの権利を剥奪された人々が収容されている。これらすべて技術的にはリーガルなものだ。

 

そういった領域のもう一方の端に、私たちはいく人かの監視人、活動家、そして内部告発者が、こうした不正に光をあてようというねらいのもとにしょっぴかれていることを目撃している。ウィキリークスの創設者であるジュリアン・アサンジは、いまだロンドンのエクアドル大使館に監禁されている。エドワード・スノーデンは自棄になって、彼を受け入れてくれる保護地を、どの国であれ、探している。パンクバンドであるプッシーライオットのメンバーは、ロシアのグーラグgulag(矯正労働収容所中央管理局)で堪え難い毎日を過ごしている。映画の言葉に置き換えるならば、悪い奴らが勝ち、正しい奴らはみんなムショ行き、というようにも見える。じゃあ法律のいいところってなんだろう?

続きを読む

Volume#37 Machines for Architecture to Be Lived in

住むための建築のための機械
ジェフリー・イナバ

建築は機械に頼っている。機械は私たちの都市の構造を住みやすいものにする。機械がなければ、建物は水や電力のような基本的なサービスを欠いたままだ。暖房も、冷房も、照明も、防火も、エレベーターも。修復も維持もできなくなる。デジタルコミュニケーションテクノロジーだって言うまでもない。生活をサポートするためのキャパシティはガクンと落ちて、建築はベーシックなシェルターくらいのものになる。

近代の建物は機械なしで機能するようにはつくられていなかった。快適な温度や新鮮な空気といった問題を考えてみよう。フロア、天井、そして外皮だけでは断熱は不十分であり、内部の温度を適切に保つために建物は気候コントロールシステムに頼る。加えて、大規模な構造であったりある程度の占有率を持つものは、レスピレーターのアレンジメントや人間のふるまいに適ったチューブを求める。自然のベンチレーションの援助があっても、外気を機械的に出し入れし、その空間で快適に過ごすことができるよう新鮮な空気を十分に循環させなければならない。機械は建物が温度や空気の流れを十分に制御できないがための埋め合わせをする。機械は住むための建築に従うのだ。 続きを読む

The irony of modernity by Matt Shaw

モダニティのアイロニー
マット・ショー

http://www.domusweb.it/en/reviews/2013/08/23/irony.html

訳者註:以下のテキストは、マット・ショーによる、エマニュエル・プティ『アイロニーもしくはポストモダン建築の自己批判のあいまいさ』のレビューです。

ヴェンチューリ、スコット・ブラウン、タイガーマン、磯崎、アイゼンマン、そしてコールハースという5人の建築家に関する「アイロニー」という視点からのエマニュエル・プティによる考察である。その多くが生のまま水面下に眠っている、建築史において最も満足するこれら知的なプロジェクトをプティは理解したのだ。

「ポストモダン」建築は、いわれのない非難に晒されている。「服装倒錯的建築」から「建築的破壊行為」までありとあらゆることを言われ、1950年代中頃に表面化した「ポストモダニズム」という知的な運動が、様式に関わる表面的な流行にその座を渡し、80年代初頭には「ポモ(※訳者註:歴史的意匠をちりばめた建築に対する当時の蔑称)」としてよく知られたものとなった。

続きを読む

Volume #36 Move That Body!

身体を動かせ!

エージェン・オースターマン

『Volume』はそれ自身批評誌である、と考えている。それは『Volume』が、生み出されたものをレビューしたり批評したりしているからではなくて、「実践としての建築」と「概念としての建築」との間に批評的な関係性を築いているからだ。今までそれで何の問題もなかった。異なった世界には異なった姿勢、その二つは決して出会うことがなく、それらはその後もずっと幸福に、それぞれで生きていた…

…というのも、かつてのカウンターカルチャーが今日の普通になるまでの話。事務所として求められていない仕事を行うこと、建築家(多くの西洋国家における、ほんの十年くらい前にあった呪い)として展開すること、ソーシャルプロジェクトを生み出すこと、建物をつくることにつながるあらゆる成果や結果の潜在力を見ること、組織をハイブリッド化しネットワーク化することは、実験や挑戦、支援や再編という新たな方法くらいのものとしてデザインを理解することであり、今日ではよくある実践になっている。実際、おそらくそれは量の問題ではなくて、メンタリティの問題なのだ。建築教育機関はこうした現実にすりあわせるために時間を割いているし、ハードコアなデザインスキルと、それと等しく求められる他の能力との間で新しいバランスを探しているのだ。

続きを読む