Volume#39 A City in the Making

生まれつつある都市
エージェン・オースターマン

 

都市の出生証明書が残っていることなんてあまりない。でもこれを見てほしい。記号やメモで溢れた香港の地図だ。好奇心をそそられる記録だが、左上の中国本島の「余白」、蛇口【Shekou】半島が、新たな港として、そして深圳経済特区となるべき産業地区として、囲われているところに目が行く。便利な位置にあって、コントロールが容易なエリア。個人的な記号と手書きのメモつきの地図によって、歴史が具体的なものになっている。それはすべてアイデアとひとつの場所からスタートした。

 

オランダの建築家グループが1997年に深圳へ訪れたとき、その都市は軌道に乗っていた―都市化のエリアは西の蛇口から東の盐田【Yentien】へ、そしてそこからさらに広がっていった。香港との境界線に沿ってドレープする、長い「リボン・シティ」だ。ひとつの印象的なモデルは新たな中心―福田【Futian】地区―を示していた。今日そこは都市の主要な行政機能のための場所となっているが、そのときはまだ荒れ地だった。訪れたグループの誰も、そのモデルが単に宣伝目的以上のものを提供してくれるなんて信じていなかった。私たちが知っている「都市」という概念と、私たちが出会ったものとの距離はあまりにも大きすぎた。それは西洋の人たちにとっては魅力的だったのだが、根本的にディストピア的な経験だったわけだ。様々な密度と高さを持つ都市化したエリアと、その間にある打ち捨てられたような空白域、すなわち将来の発展が約束されてはいるが目下のところまったく計画の手が及んでいない場所を数時間かけてドライブした。いかなる意味での中心も重心もない。しかし羅湖【Luohu】という香港を貫く古い境界線周りの密集は他の地域に比べてずっと高かった。

 

当時、深圳は国際的にはその大きな数によって認識されていた。その数とは、驚異的な成長率と想像をくすぐる発展スピードのことだ。レム・コールハースが珠江デルタにおける生産スピードについてレクチャーするなかで―その地域の建築家であれば11時間も経たない間に高層ビルをひとつ設計してしまう、というようなことを示す計算をして、聞きに来ている人たちを唖然とさせていた―、私たちは実際起こっていることを目の当たりにしたわけだ。深圳の建築学校の中から窓の外を見たとき、遠くに見える5つのアパートメントタワーに目を奪われた。それらは私がついさっき見た卒業設計作品ととても似通っていた。学長にそのことを尋ねたとき、私は外のタワーを指しながらついついこう言ってしまった。「あの学生は自分のインスピレーションをうまく生かせていませんね。」と。学長はこう返した。「とんでもない。あれらのタワーは彼が卒業した後、彼自身のデザインに沿って建てられたものです。」西洋の若い建築家であれば、最初の仕事としてヴィラの増築や5連棟の住宅でも手がけられたら感激ものだが、ここでは30階建てのマルチタワー複合施設くらいが普通のようだ。

 

16年が経って、この都市は成熟した。1997年のモデルが現実となり、提案されていた中心が実現し、より一般的なレベルで、都市はより普通に、ちょっとだけ自分たちにとっても理解がより容易になった。「より」容易になった、のであって、容易になったわけではない。なぜなら構造的にその都市は歴史的関係性や自律的な発展の入り組んだパッチワークであり、主要道路の構造や地下鉄の路線によって結びつけられていたからだ。1500万人都市において、ほとんどすべての建物やインフラの一部が長くて35年くらいしか持たない、ということに気づくと信じられない気持ちになる。でも周りを見回してみると、場所の感覚を生み出す、新旧の混在、良くデザインされたものと急ごしらえな部分との混在、衰退とリニューアルの混在という、高まりつつある歴史の感覚がある。

 

そしてここで新たな物語が始まる。深圳は境界線によって、すなわち線を引くこと、排除の領域を規定することによって生み出された。ただそのねらいは、領域間を仲介することだったし、いまもそうで、長い目で見ると、結局はその領域を排除することにある―香港境界線は2047年に失効することになっていて、最終的にその領域は疑いなく珠江デルタのメガロポリスへと統合される。その都市はひとつの目的、ひとつの生産と繁栄機械、商品のためのツールとして生み出され建てられている。いまやそれは政治経済的アジェンダに従属しはじめていたり、自身のリアリティに取り組みはじめていたり、という課題に直面している。中国の各地域(香港はいくつかあるそれらの中のひとつ)内での発展を調整し、世界中の経済的に見て中国よりも発展している地域と中国との発展を調整するという目的が達成されてしまえば、中国がだんだんと分解していった内的境界線のように、深圳は切り捨てられ、また分解していく可能性もある。そういう結論になるのだろうか? ちょうど深圳の工場が、ヴェトナムのようなより安い労働力国家へと拠点を移しながらすでに行っているように、立ち去るために金に従属し、よりよい利益のために資本に従属するのか? あるいは、私たちはこう結論づけるべきだろうか? 深圳はうまく活気づけられたのだ、と。そして深圳は闘争と配慮に仕える特質を、時代とともにさらに深くなる特質を、持っている、と。

 

問いを立てることはそれに答えることだ。2005年のこの「Bi-City Biennale of Urbanism/Architecture(UABB:アーバニズムと建築のバイ・シティビエンナーレ)」をはじめたときには、少なくとも深圳の都市計画局はそうした。最初これはブランディング操作のようにも見えたかもしれない。世界的な文化シーンにおいて深圳を目立たせるために、ビエンナーレは効果的なことに思われる。他の港町はそうした。ロッテルダムはその文化的風潮によって知られているわけでもないし、リバプールだって同じ。それはたくさんのことができる小規模投資をうけて取り組むべきものなのだ。UABBは、いまでは、世界中ほとんど全ての国で採用されている、よく知られ、テストされた再開発の定式の応用として見ることができる。空いてしまった産業ビルストックをこれまでにない形で提供することによって、小さな企業家のクリエイティブクラスを引きつけ、産業生産経済をポスト産業サービス経済へと変容させ、クリエイティブ産業が花開くのを目にするのだ。こう言うことだってできるかもしれない。すなわち、UABBは地域的なものであって、深圳はそれ自身の問題に取り組んでいて、このビエンナーレを再開発を実験し、はずみをつけるためのツールとして利用しているのだ、と。その通りであって、間違いはない。

 

でも、この都市状況の変容を、すなわち、方向性を与えてくれるような、ますます多くなる気づきと意思を目撃するのは魅力的だ。

 

深圳はそのアトラクションを再定義し、取り組みはじめる方法も再定義している。潜在的には、中国やそれを超えたまた別の都市のための一例になる。それがこのUABBを国際規模で興味深いものにしている。このビエンナーレを例えばベニスビエンナーレと比べる必要はない。別モノだからだ。深圳において賭けられているものがある。より大きなプランは香港とシンクロすること。その切迫性は、たくさんの人手を要する、産業生産を基盤とする経済定式を再発明し、サービス経済へとアップブレードすること。そしてその課題は、そうした変容を支える都市を生み出すことだ。現在にいたるまで、都市は要求を伝え、必要を補い得る。今やそれはより永続的で、よりサステイナブルなものに変わるチャンスがある。その探求はこの5回目のUABB深圳とともにはじまり、現象の一覧と空間実験を提示する。クリエイティブ・ディレクターとしてオレ・ボウマンは適切にこう言う。リスクとしてのビエンナーレ、と。

 

 

訳/榊原