The irony of modernity by Matt Shaw

モダニティのアイロニー
マット・ショー

http://www.domusweb.it/en/reviews/2013/08/23/irony.html

訳者註:以下のテキストは、マット・ショーによる、エマニュエル・プティ『アイロニーもしくはポストモダン建築の自己批判のあいまいさ』のレビューです。

ヴェンチューリ、スコット・ブラウン、タイガーマン、磯崎、アイゼンマン、そしてコールハースという5人の建築家に関する「アイロニー」という視点からのエマニュエル・プティによる考察である。その多くが生のまま水面下に眠っている、建築史において最も満足するこれら知的なプロジェクトをプティは理解したのだ。

「ポストモダン」建築は、いわれのない非難に晒されている。「服装倒錯的建築」から「建築的破壊行為」までありとあらゆることを言われ、1950年代中頃に表面化した「ポストモダニズム」という知的な運動が、様式に関わる表面的な流行にその座を渡し、80年代初頭には「ポモ(※訳者註:歴史的意匠をちりばめた建築に対する当時の蔑称)」としてよく知られたものとなった。

建築家であり教育者でもあるエマニュエル・プティは、彼の新刊『アイロニーもしくはポストモダン建築の自己批判のあいまいさ』によって、過去半世紀の建築に根本的に影響を与えた知的なプロジェクトをよみがえらせた。「アイロニー」という視点からエマニュエル・プティは、ヴェンチューリ、スコット・ブラウン、タイガーマン、磯崎、アイゼンマン、そしてコールハースという5人の建築家の仕事を分析している。厳密に調査され正確に書かれた分析を通して、多くが生のまま水面下に眠っている、建築史において最も満足する知的なプロジェクトをプティは理解したのだ。

プティの本は「うげえ!ポモかよ!」という人たちから縄張りを取りもどし、60年代、70年代、そして80年代初頭における建築を、建築という歴史と分野の中での、そしてその時期に起こった広大な文化的シフトの中での、内容の詰まった何か豊かなものとして、措定する。彼は、あの時代の建築においてアイロニーが展開された多様な方法を見出すため、文芸批評、哲学、そしてユーモアの理論を引いている。この視点はしっかりと焦点が定まっており、プティが(普段は)重要なツールとして、「アイロニー」が含まれているものとして、見定めた作品へのエントリポイントとなる。ときに本書にはかなりの情報量があり、予備知識を必要とする多くの参照が含まれている。トピックを考えるととても読みやすく、その引用元に行き着くために手間取っている人たちにとっては信じられないほど価値のあるものである。 

それぞれの章は「アイロニック」な矛盾する現代的な状況の問題を扱っている。建築は2つの逆説的な現実の中に置かれている。例えば、クリエーター(建築家)の完全で、理想的な、合理的洞察と、乱雑で不合理で多元的な現実世界という二つがそれにあたる。第1章は、ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウンの活動を取り上げている。ヴェンチューリの作品における歴史の引用は、歴史的リバイバルではなく、社会的なアジェンダ(ポピュリズム)と建築におけるコミュニケーションに関する彼らの理論を結びつける一助としてのアイロニックな振る舞いである、とプティは分析する。ヴェンチューリに対する「ニュークリティックス」の影響を追うことで、プティはヴェンチューリがどのように建物と都市を「テキスト」として、それぞれのテキストの部分的な間だけでなく、お互いの関係性とともに見ていたのかを明らかにする。これは建物が形作られる際の彼らの徹底的な文脈に沿った態度の基本となる。それはモダニズムが避けようと試みたものへ提示されたしっかりとした考察とともに、ヴェンチューリの作品が焦点化する、建設環境の「乱雑な活気」であった。モダニズムからの最も急進的な変革を記し、また建築に新しい言語をもたらしたがゆえに最も深刻なアイロニックなジレンマ(良い意味で)を建築にもたらしたのは、こうした建築に対するこの先送りの姿勢だったのだ。

スタンリー・タイガーマンも同じようにアイロニックな立場ではあるが、もっと私的なものである。ベンチューリにとっては、形態と理論におけるアイロニックな振る舞いは、社会階級と嗜好文化(taste cultures)を繋ぐものとしてあった。タイガーマンにとっては、偽=客観的で硬直したモダニズム建築の状況に対して、アーティストの主観的で風変わりな役割こそ語られるべきものとなる。これは、率直でときに秩序だった拒絶と、ミース風モダニズムの「熟練」の破壊としてのタイガーマン建築において明らかなことだ。彼のポジションは彼自身の個人的なキャラクターを通して発展し、建築に関する単一的な考え方の束縛から自由になった。タイガーマンは、彼の「Architoons」が哲学者らや建築家らを同様にはっきりと参照しているように、おそらくもっとも表面上は哲学的である。タイガーマンもまた、彼の見てきたモダニズムの圧制的で有害な真面目さを破滅するためにユーモアを利用する。例えば「ダンテの「神曲」地獄編へのオマージュとしてのトイレ増築」と呼ばれる彼の提案がその1つである。

タイガーマンとヴェンチューリに比べるとトラブルメーカーではない磯崎新の個人的な話は第二次世界大戦中の日本での生い立ちと複雑に結びつけられている。彼が建築家として歩み始めた頃はメタボリストとのつながりがあったものの、ナイーブな楽観主義として彼に見えたもののために、彼はグループから離脱することとなった。磯崎は都市における歴史の影響だけでなく戦争によって破壊された都市も見ていた。このことは磯崎に深い影響をもたらし、彼の作品はいつもとても暗いものであった。歴史の存在と将来の野望が同時に存在するアイロニーが、この時期の磯崎の作品の根底にはあり、特に「廃墟」のアレゴリーを使うことからも分かる。彼も西洋哲学と並行する日本哲学を踏まえながら作品をつくった。磯崎の仕事は、ここで取り上げる他の建築家と同じように、建築の分野的ジレンマを認識していた。それは、理想的なイメージにおける世界、彼の作品を物理的にも形而上学的にもむすびつける世界のリアリティをつくろうと試みる、風変わりな創造者というものだ。磯崎にとって、これは、廃墟や闇といったような、いつの時代においても完全な崩壊という可能性として明らかにされていることであり、新たに建てるというアイデアと彼の作品とを対比させる際に、アイロニーを与えてくれるのだ。

第4章は、最も弱く、最も充実していない章である。プティのリサーチもしくは記述が緩まったからではなく、主題の要素がおそらくここにあまりフィットしていなかったからだと思う。論考はピーター・アイゼンマンの作品の歴史化からはじまるのだが、時間的観点からは説得力に欠けているように見えるし、他の建築家の作品のように現代と関係のあるようには見えない。コールハースやヴェンチューリ、そしてスコット・ブラウンの初期のプロジェクトと比較して、アイゼンマンの作品は平凡で陳腐なものに見え、ヴェンチューリとコールハースが建築作品と言説によって試みたように、建築という分野の外側にある社会問題とつなげようとしているように見える(アイゼンマンの言語理論による実験はさておき)。おそらく最も今日的な意義があるアイゼンマンからの教訓は、建築家たちの作品を取り巻く退屈な環境である。本章も、発表されている作品に関する言説や作品分析を説明することで、プロジェクトの自主性が、建築の大規模な文化からの疎外や、ゆえに最近の失業問題へと明らかにつながっていることを示す。

最終章はレム・コールハースの初期作品を分析している。他の建築家と同じく似たようなジレンマの中で、コールハースは、ユートピアが存在しえた単一で所与の環境をつくるモダニズムの野心と、そうした世界の中で動き回る社会と人々の現実の間のアイロニーを考察している。コールハースにとって、スケール、表象、などなどといった分野的な比喩と、建築外の世界(メトロポリスというコンテクスト)との間には断絶があったのだ。この日常生活という現実性、都市に暮らす人たちの集合的な野心、そうしたものに立ち向かう建築の苦闘に気づくことは、アイロニックな社会の中に建築家の立場をつくるものだ。コールハースはセドリック・プライスに対して、彼の「偽りの反知性主義」、そしてこの職業のゆるぎないしきたりに対する批評と同様に、日常なるものへの彼の鋭い気づきに賞賛を示している。これは「ポストモダン建築の自己批判のあいまいさ」の本質である。プティが分析するように、建築史におけるこの時期の決定的なアイロニーは、ポストモダニティという根本的に変化する世界に直面する中でポジションと自己同一性を見いだすためにもがくことなのだ。全編にわたりこの本は大変良く書かれており、建築の歴史において最も価値のある時代に対して思慮深く作り込まれた概観である。

下訳/木村