QC vol.2|1月24.25日大庭哲治レクチャーレポート

2010年1月24日25日はQueryCruise第二期の第一回目、京都大学大学院工学研究科都市社会工学専攻助教の大庭哲治先生によるレクチャーが行われた。参加者はおよそ3分の1が学生、3分の2が社会人だった。都市景観に関わる職につかれる方、建築事務所につとめる方、芸術に関わる方などなど、多彩な顔ぶれで大庭先生をお迎えすることができた。

「都市景観の「値段」とその評価基準について考える」というタイトルの通り、今回大庭先生をお迎えすることで提供したかった論点は、景観価値の数量化という方法が景観問題に何をもたらすのかということであった。いうまでもなく個人的主観的なる都市景観への値段付けは「あえて」のものであり、多分の暴力性と危険性を含み持つものだ。容易に想定しうる「景観には値段などつけられない」というナイーブな反論は「わかりやすさ」を持つが、このメッセージが逆に「計り知れない景観」を市場価値のみで判断させ破壊させてしまう帰結を招きかねないこともまたひとつの危険性であろう。現実はしたたかであり、そのしたたかさに「待った」をかけるためのツールとして景観価値の数量化を考えてみるべきではないか。ただしその時に避けられるべきは、その数量化の方法論を一方向的に伝えてもらうというものであろう。むしろその景観価値の数量化という方法が含み持つ諸々の政治性にこそ価値を置くべきであり、それはなぜ数量化されるのか、どのようにして数量化されるのか、現行のシステムの中にどのような貢献をなすのか、そして数量化を通してどのような景観問題の問題が浮かび上がるのか、これらをみていくことが今回の要点となる。

なぜ景観が数量化されなければならないのか
都市景観の構成要素を考えてみると、その多くは私有財である。そしてそれらの大半は一度破壊されると再生がきわめて困難なものである。先に触れた通り、景観なるものは多分に個人的で主観的な側面を持っている。そこに住む者、そこを訪れる者、自らの子孫にそこを見せたいと望む者、ポストカードでしか見ることはできないがその景観を愛する者、景観への介入の仕方は多岐にわたり、それぞれがそれぞれなりの価値をそこに見いだしていると言える。さて、では彼らはいったい景観という名の下に何をみているのだろうか。特定の地点から見られるある平面的なイメージだろうか、その地域が持つ雰囲気のようなものか、その街区そのものか。これは今回の議論でも最後まで問われたことでもある。結局のところ、その景観がその景観である固有性が何によってもたらされているのかはおそらく誰にもわからない。これまでにみた、構成要素の私有性、関係者の多義性、アイデンティティの不明瞭性、これらのものがもたらす帰結は、その景観の保存に責任を持ち、経済的コストを負担する者が見えてこないというところに集約されるだろう。結果自由市場の波は古い町家を中高層のマンションにかえる。その例が示す通り、景観価値の数量化が立ち向かうのは開発行為という経済行為なのであり、価値の貨幣化のねらいはそれと同じ舞台に立ち、関係する者それぞれがそれぞれに持つ価値体系を整理しながら、市場価値とは別の価値基準を示すというところにある。私有財故に放棄もやむなしとした結果、景観はその一部を失っていく。その一部がつもりつもって行く中で、その景観はどの程度残っていると言うことができるのだろうか。こうした「負のスパイラル」への対策のひとつとして、景観の数量化の必要性が考えられるべきだ。つまり、負担者を先に立てることよりも、どのような人々がある景観にどれだけの選好を抱いているのかを明確にし、そこからコミュニケーションをはじめようということである。

どのようにして景観が数量化されるのか
さて、ではその数量化はどのようにしてなされるのだろうか。具体的な方法に関しては参加者の一人が自らのブログにエントリを挙げて説明してくださったので、ここでは割愛する(参加者の一人によるレポート「建築とその周辺についてのモノローグ」を参照のこと)が、ポイントとなるのは、上に触れた多様な景観への介入のあり方が個別の価値(6種)として明確化されているところにある。そしてその計測方法には4種あり、それらは旅行費用、地価、そして不動産価値との相対化によって導きだす方法と、アンケート調査によって仮に市場が存在しているかのような状態を作り出すことによって価値を導きだす方法との二種類に分類することができる。後者に関しては調査方法によってバイアスがかかるという従来からの問題があるものの、より重要な点として、その調査費用がだれによって支払われるのかは一つの問題であろう。実は各方法にはそれぞれ経済的コストに偏りがあるため、その運用の背景にある諸々の政治性を無視することができないのではないかと思われる。一方出てきた価値が一体何の値段を示しているのかにも注意を払うべきだろう。議論の中では有効回答率がどのようになっているか、また誰に意見をもらうのか(とりわけ重要なのは、法人を対象にすることができるのかということ)、その価値がどの程度の頻度で更新可能なのか、そしてその正当性をチェックするような第三機関のあり方へと問いが向かっていたことは強調しておきたい。また、大庭先生が指摘する通り、これらの数量化された価値はあくまでも現在の景観評価にすぎない、という問題や、出された複数の価値が互いにどのような状態にあるのか(その高低によって価値の優劣を決めることはできない)という問題も忘れてはならないだろう。出された価値の使用法は開発行為の経済的コストと比較するために、そして誰に対してメリットがあるのかを示すために存在しているのである。

人は、人々は、景観にどう関わっていくべきか
以上一日目を振り返りながら出された意見をざっと概観した。二日目ではその具体例をいくつか挙げてもらうことからはじまり、大庭先生がその評定委員である、「京都らしい景観」をつくるための現行システムの一端を担う「新景観政策」に関する話へと続いていく。なお、今回は残念ながら「京都らしさ」に関する議論までには至らなかったが、この視点に関しては第三回目の加藤政洋先生の回でじっくりと考えていくことになるだろう。詳細に関しては割愛させていただくが、新景観政策の中にこの景観価値の数量化を取り入れようとする試みが起こっているという点は興味深い。新景観政策に関しては表面的主観的な反論が多く語られるが、こうした政策の更新のあり方をつぶさに見、どのような方向性がとられているのかを理解する必要性を実感する。ただ、視点を引いて考えてみると、あくまでもこれらが行政の政策として、トップダウンのシステムとして運用されんとしていることに対する批判も当然存在すべきであろう。そしてその点に関して興味深い視点が参加者の中から提示された。これを紹介しながら今回の概観を終えようと思う。それは、それらトップダウン型の政策が、生活の現実とその変化に対応していないのではないか、という問題である。生活が変われば景観への関わり方ももちろん変わる。長いスパンで見てみれば、所有権も移るだろうし、所有者自体も変わっていく。こうした関わり方とその変化とが景観問題へとよい帰結をもたらすために必要なシステムはどのようなものになるだろうか、という問題提起であったように感じられた。この視点が興味深いのは、ありそうなトップダウン/ボトムアップ、という構図に収まらないメッセージを持っているところだ。生活のただ中にある景観へ関わり方を長いスパンのなかで、そして比較的大きな母数のなかで実現するためには何らかの決まり事が必要である。それが例えば「政策」と呼ばれることもあり得るだろうし、現在そう呼ばれているはずだ。これらの諸問題を考えることなしに、政策ではなく生活を、と闇雲に強調することは片手落ちにならざるを得ない。とりわけ必要なのは、時間という垂直性と、関係する人という水平性であろうか。景観問題があくまでも「みんな」の問題であることを忘れてはならない。そしてその「みんな」なるものがいったいどのような集団になるのか、そしてその「みんな」が景観に対してある決定をなすとき、彼らはどのようにその決め方を決めるのか。こうしたことがらは、今回の最後で提示していただいた視点が一定規模の垂直性と水平性の中で保持されるための補足的な、しかし極めて重要なものとなるはずだ。これらに関しては次回、佐野亘先生レクチャーにおけるメインテーマと重なる部分が多い。有意義な議論が起こることを望んでいる。
( RAD/S )

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